【死因と訃報】2025年12月23日に78歳で死去
ジャンボ尾崎さんは、2025年12月23日午後3時21分、S状結腸がんのため78歳で亡くなりました。
死因は、日本ゴルフツアー機構(JGTO)と日本プロゴルフ協会(PGA)が翌24日に公表しています。
訃報を伝えたのは長男の尾崎智春さんです。本人の意思により、自宅療養を続けていたことも発表されました。
葬儀は故人の遺志に従い、近親者のみで執り行われることになりました。
死去までの最後の数週間
長男の智春さんが2026年2月の取材で明かした内容によると、2025年12月に入ってから体調が急速に悪化しました。
医師からは年を越せる見通しを伝えられていたものの、実際にはがんの進行が速く、想定より早く病状が悪化したといいます。
亡くなる2日前の12月21日には、弟の尾崎健夫さん、尾崎直道さんらが訪問しました。
その際、尾崎さんはほとんど話すことができず、目を開けて家族や関係者の話を聞いていたと報じられています。
長男が振り返った父子の最後の会話は「もう少しだから大丈夫」という言葉でした。
長男が明かした父の最後の言葉
2026年3月16日、帝国ホテル東京で開催されたお別れの会では、喪主を務めた智春さんが父親についてあいさつしました。
その中で紹介されたのが、尾崎さんの「わが人生に悔いはない」という言葉です。
好きなことをして、自分らしく生きた人生だったと長男が振り返ったことは、多くの参列者の胸に残りました。
ここで紹介された言葉と、闘病中の最後の父子の会話は、それぞれ異なる場面で語られたものです。
【ゴルフ人生】ジャンボ尾崎が残した113勝と後進への功績
病気や死因に注目が集まっていますが、尾崎将司さんを語るうえで欠かせないのが、日本男子ゴルフ界に残した圧倒的な実績です。
1947年1月24日、徳島県生まれ。
徳島海南高校では野球部のエースとして活躍し、1964年春の選抜高校野球大会で優勝しました。その後、プロ野球の西鉄ライオンズに入団しましたが、野球選手としての道を離れ、ゴルフに転向します。
1970年にプロゴルファーとなり、翌1971年には日本プロで初優勝。1973年には賞金ランキング制度の初代賞金王に輝きました。
主なゴルフ実績
| 項目 | 実績 |
|---|---|
| 生年月日 | 1947年1月24日 |
| 出身地 | 徳島県 |
| プロ転向 | 1970年 |
| 初優勝 | 1971年・日本プロ |
| プロ通算勝利 | 113勝 |
| 国内勝利 | 112勝 |
| ツアー勝利 | 94勝 |
| 賞金王 | 12回 |
| 最後の優勝 | 2002年・全日空オープン |
| 最年長優勝記録 | 55歳 |
特筆すべきは、プロ通算113勝と賞金王12回という記録です。
国内ツアー制度施行後の94勝は男子ツアー歴代最多。2002年の全日空オープンでは55歳で優勝し、当時のツアー制度施行後の最年長優勝記録を樹立しました。
この優勝が通算113勝目であり、現役選手として最後の勝利にもなりました。
晩年はゴルフアカデミーで後進を育成
尾崎さんの功績は、現役時代の勝利数だけではありません。
晩年にはジャンボゴルフアカデミーを主宰し、若手選手の育成にも力を注ぎました。
PGAの訃報発表では、指導を受けた選手として原英莉花さん、笹生優花さん、西郷真央さんらの名前が挙げられています。
国内外で活躍する選手を育てたことは、ジャンボ尾崎という存在が日本ゴルフ界に残した大きな財産です。
【2026年最新情報】徳島での納骨と帝国ホテルのお別れ会
2026年には、尾崎将司さんを偲ぶ重要な行事が相次いで行われました。
故郷での納骨法要と、ゴルフ界の関係者や一般参列者が集まった東京でのお別れの会です。
2026年2月5日:徳島県海陽町で納骨法要
2026年2月5日、尾崎さんの出身地である徳島県海陽町で、四十九日法要と納骨の儀が営まれました。
徳島新聞の報道によると、会場となったのは海陽町宍喰浦の大日寺です。
弟の尾崎健夫さん、尾崎直道さんをはじめとする親族や旧友、町関係者ら約100人が参列しました。
遺骨が納められたのは、尾崎さんが生前に故郷に建立していた自身の墓所です。
ゴルフの第一線で活躍した人物が、最終的に故郷に眠ることになったという点でも、ゆかりの深い徳島での法要は大きな節目となりました。
2026年3月16日:帝国ホテル東京でお別れの会
2026年3月16日には、東京都千代田区の帝国ホテル東京で「尾崎将司氏 お別れの会」が開催されました。
主催したのは、日本プロゴルフ協会、日本ゴルフツアー機構、ジャパンゴルフツアー選手会の3団体です。
発起人代表は、生涯のライバルとして数々の名勝負を繰り広げた青木功さん。喪主は長男の尾崎智春さんが務めました。
開催内容は次のとおりです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 開催日 | 2026年3月16日 |
| 会場 | 帝国ホテル東京・本館2階「孔雀の間」 |
| 第1部 | 10時30分~12時・招待者のみ |
| 第2部 | 13時30分~14時30分・一般献花 |
| 発起人代表 | 青木功さん |
| 喪主 | 尾崎智春さん |
| 参列者 | 約2,000人 |
日本ゴルフ協会の開催報告によると、当日は関係者と一般献花者を合わせて約2,000人が参列しました。
祭壇は富士山とゴルフ場をモチーフにしたもので、約5,000本、10種類の花が使用されました。
また、2002年のANAオープンで最後の優勝を飾った際の写真や、数々の優勝杯、愛用のクラブ、キャディバッグなども展示されました。
単なる追悼の場にとどまらず、ジャンボ尾崎が日本ゴルフ界に残した歴史を振り返る式典となりました。
青木功が弔辞で伝えた盟友への思い
お別れの会で特に注目されたのが、青木功さんによる弔辞です。
青木さんは尾崎さんとともに日本ゴルフ界の一時代を築いた盟友であり、長年にわたるライバルでもありました。
JGTOが公開した弔辞では、青木さんがジャンボとの関係を振り返り、次のような言葉を残しています。
「自分の生涯のライバルはジャンボ」
青木さんにとって尾崎さんは、単に競技で競い合った相手ではありません。互いの存在によってゴルフ人生を高め合った特別な存在でした。
弔辞には、長年の友情と突然の別れに対する深い悲しみが込められていました。
2026年9月30日:日本ゴルフ殿堂入りが実現
2026年の追悼に関する重要な動きは、お別れの会だけではありません。
日本ゴルフ協会(JGA)は2026年4月15日、尾崎将司さんを2026年度の日本ゴルフ殿堂プレーヤー部門の顕彰者に選出したと発表しました。
そして9月30日、兵庫県の宝塚ゴルフ倶楽部で顕彰式典が開催され、長男の智春さんが出席。顕彰状と記念盾が贈呈されました。
これは、亡くなった後も尾崎さんの競技実績と日本ゴルフ界への貢献が正式に評価された出来事です。
2026年10月現在、闘病と死去をめぐる一連の出来事に加え、日本ゴルフ殿堂入りという形でも、その功績が改めて顕彰されています。
【ジャンボ尾崎病気】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:ジャンボ尾崎の病気は何だったのでしょうか?
A1:S状結腸がんです。2024年9月にステージIVと診断され、抗がん剤治療を受けました。2025年12月23日に78歳で亡くなっています。
Q2:ジャンボ尾崎はいつから闘病していたのですか?
A2:長男の証言によると、2024年9月に病気が判明し、同年10月から抗がん剤治療を開始しました。その後、自宅療養と定期的な通院治療を続け、2025年10月に抗がん剤治療を終了しました。
Q3:ジャンボ尾崎のお別れの会はいつ、どこで行われましたか?
A3:2026年3月16日、東京の帝国ホテル東京で開催されました。発起人代表は青木功さんで、約2,000人が参列。これに先立つ2月5日には、故郷の徳島県海陽町で納骨法要が営まれています。
まとめ:ジャンボ尾崎の病気と晩年から分かること
ジャンボ尾崎こと尾崎将司さんは、2024年9月にステージIVのS状結腸がんと診断され、約1年間にわたる抗がん剤治療と自宅療養を経験しました。
2025年10月には治療の継続を断念し、同年12月23日午後3時21分、78歳で亡くなりました。死因はS状結腸がんで、長男の尾崎智春さんが翌日に訃報を公表しています。
2026年には、故郷の徳島県海陽町での納骨法要、帝国ホテル東京でのお別れの会が行われ、青木功さんが盟友への弔辞を読みました。さらに9月には日本ゴルフ殿堂入りの顕彰式も実施されています。
今回の闘病について知るうえで押さえておきたいのは、次の3点です。
- 病気の事実: 2024年にステージIVのS状結腸がんと診断されたこと。
- 晩年の選択: 抗がん剤治療を受けながら自宅療養を続け、最終的には本人の意思で治療を終了したこと。
- 残した功績: プロ通算113勝、賞金王12回という記録に加え、後進の育成にも大きく貢献したこと。
ジャンボ尾崎さんが残したものは、ゴルフの記録だけではありません。青木功さんをはじめとする仲間との絆、そして次世代の選手たちへ受け継がれたゴルフへの情熱も、その大きな遺産です。
78年の生涯と日本ゴルフ界への功績は、これからも語り継がれていくでしょう。 (出典: ジャンボ 尾崎 病気(Yahoo!ニュース))