徳山昌守の現在と引退理由を徹底解説!本名・戦績・川嶋戦、幻の対戦の全貌

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徳山昌守の現在と引退理由を徹底解説!本名・戦績・川嶋戦、幻の対戦の全貌
徳山昌守の現在と引退理由を徹底解説!本名・戦績・川嶋戦、幻の対戦の全貌
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🎵 徳山昌守の現在と引退理由を徹底解説!本名・戦績・川嶋戦、幻の対戦の全貌

元WBC世界スーパーフライ級王者として、日本ボクシング界に強烈な印象を残した徳山昌守。2000年に世界王座を獲得し、8連続防衛を達成した技巧派ボクサーは、なぜ2007年に現役引退を決断したのでしょうか。

2026年現在、徳山昌守は単に過去の世界王者として名前を残しているわけではありません。東大阪市で「徳山ボクシングジム」を主宰し、後進の育成に取り組んでいます。本名は洪昌守(ホン・チャンス)で、在日朝鮮人3世というルーツを持つ人物です。現役時代には川嶋勝重との激闘、長谷川穂積や亀田興毅との実現しなかったビッグマッチなど、数々の話題を生みました。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 要点1:徳山昌守はWBC世界スーパーフライ級王者に2度就き、通算9度の世界王座防衛を記録した名ボクサー。
  • 要点2:2007年3月15日にJBCへ引退届を提出。川嶋戦後のモチベーション低下と、長谷川穂積・亀田興毅との対戦が実現しなかったことが背景にある。
  • 要点3:2026年現在は東大阪市の徳山ボクシングジム会長。プロ選手の育成にも力を注いでいる。

【2026年最新】徳山昌守の現在は?引退後の仕事とボクシングジム経営

徳山昌守
【画像】徳山 昌 守 関連ショット

徳山昌守の現在を知るうえで注目したいのが、2024年12月に開設した「徳山ボクシングジム」です。

現役引退後は大阪を拠点に実業家として活動してきましたが、最終的に再びボクシングの世界に本格復帰する道を選びました。現在の徳山は、リング上で自ら戦う選手ではなく、選手を育てる指導者・ジム会長という立場にあります。

2024年に徳山ボクシングジムを開設

徳山昌守
【写真】徳山 昌 守 近影・注目カット

日刊スポーツの2024年12月2日の報道によると、徳山は東大阪市に徳山ボクシングジムを開設。同日にジム開きを行いました。

以前からジムを持つ構想を抱いていた徳山は、2023年春ごろから物件探しを始め、約1年半をかけて拠点を決定。現役時代から培ってきた技術や経験を、次世代の選手に伝える環境を整えました。

ジムの指導方針として掲げているのは「打たせずに打つ」ボクシングです。これは現役時代の徳山を象徴するスタイルでもあります。相手との距離を巧みに管理し、無駄な被弾を避けながら正確なパンチを当てる技術を重視しています。

日刊スポーツの取材では、徳山は井上尚弥や井岡一翔のような本格的なチャンピオンを育てたいという目標を語っています。

2025年にはプロ加盟、2026年には所属選手が初勝利

徳山昌守
【資料】徳山 昌 守 報道・メディア記録

ジム開設後の歩みも着実です。2025年11月にはプロボクシングジムとしての加盟が報じられ、アマチュアやフィットネスを中心とした指導から、プロ選手を育成する体制へと進みました。

2026年5月には所属選手がプロ初勝利を挙げ、同年10月4日にはジム所属の加藤慶介、李勝輝、道家孝明の3選手が同じ興行でそろってプロ初白星を獲得しました。

スポーツ報知の報道によると、徳山はセコンドとして試合を見届け、「全員勝ててホッとした」と選手たちをたたえています。ジム開設以来初となる同日3連勝でした。

2026年10月現在、徳山は52歳。現役時代に世界の頂点を経験したボクサーが、今度は指導者として新たな挑戦を続けています。

焼肉店経営からボクシング界への復帰

引退直後の徳山は、ボクシング以外の分野にも活動の幅を広げました。

2009年7月には大阪市生野区の鶴橋に焼肉店「まる徳」を開店。ボクシング界から離れ、飲食店経営という新しい仕事に取り組みました。

その後、店舗は2017年に閉店。徳山はボクシング界への貢献を意識し、アマチュア選手の指導などを続けながらジム開設の準備を進めました。

引退後の歩みを整理すると、徳山は競技生活を終えた後も、ボクシングとの関係を完全に断ち切ったわけではなかったことが分かります。

【本名・国籍・プロフィール】徳山昌守は在日朝鮮人3世で本名は洪昌守

徳山昌守のプロフィールで検索されることが多いのが、本名や国籍、在日朝鮮人3世というルーツです。

日刊スポーツの人物紹介やプロボクシング世界チャンピオン会のプロフィールによると、徳山昌守は1974年9月17日、東京都で生まれました。本名は洪昌守(ホン・チャンス)。徳山昌守は日本で活動する際の名前です。

徳山昌守の基本プロフィール

主なプロフィールは次のとおりです。

  • 名前:徳山昌守(とくやま・まさもり)
  • 本名:洪昌守(ホン・チャンス)
  • 生年月日:1974年9月17日
  • 出身地:東京都
  • ルーツ:在日朝鮮人3世
  • 国籍:プロボクシング世界チャンピオン会のプロフィールでは韓国国籍と記載
  • 競技:プロボクシング
  • 主な階級:スーパーフライ級
  • 主な所属:グリーンツダジム、金沢ジム
  • 最終プロ戦績:36戦32勝(8KO)3敗1分
  • 現在:徳山ボクシングジム会長

韓国籍と朝鮮籍の表記が異なる理由

徳山昌守の国籍について調べると、「韓国籍」と「朝鮮籍」という2種類の表記が見つかります。

プロボクシング世界チャンピオン会のプロフィールでは韓国国籍と紹介されています。一方、日本プロボクシング協会の過去の選手紹介や日刊スポーツの2024年の記事では、朝鮮籍という表記が使用されています。

この違いを理解するには、民族的なルーツと国籍・外国人登録上の表記を区別する必要があります。

在日朝鮮人3世という説明は、徳山の家族的・歴史的なルーツを示すものです。一方、韓国籍や朝鮮籍は法的な登録上の区分に関係します。特に朝鮮籍という表記は、そのまま北朝鮮国籍を意味するものではありません。

したがって、徳山昌守については、在日朝鮮人3世という出自と、資料に記載された時期によって異なる国籍・籍の表記を分けて理解することが大切です。

ボクシングを始めたのは東京朝鮮高級学校時代

徳山は東京朝鮮高級学校でボクシングを始めました。高校時代のアマチュア戦績は17戦12勝(2KO・RSC)5敗とされています。

高校卒業後は大阪に移り、1994年9月にグリーンツダジムからプロデビュー。1996年にはフライ級の全日本新人王を獲得し、その後、金沢ジムへ移籍しました。

プロ初期には日本タイトルへの挑戦に失敗するなど、決して順風満帆なスタートではありませんでした。しかし、1998年12月に元世界王者の井岡弘樹を破ったことで評価を高め、翌1999年には東洋太平洋スーパーフライ級王座を獲得しています。

【ボクシング経歴・戦績】WBC世界スーパーフライ級王者への道のり

徳山昌守のボクシング経歴を語るうえで欠かせないのが、WBC世界スーパーフライ級王座です。

2000年8月、徳山は当時の王者・曹仁柱(チョ・インジュ)を破り、初めて世界王者となりました。その後、8連続防衛を達成。2004年に一度王座を失ったものの、2005年の再戦で再び世界王者に返り咲きました。

世界王座を2度獲得し、通算9度の防衛を記録した実績は、当時の日本ボクシング界でも際立つものでした。

徳山昌守の主要経歴年表

年月出来事主な実績・結果
1974年9月東京都で誕生本名は洪昌守
1994年9月プロデビューグリーンツダジム所属
1996年2月全日本新人王獲得フライ級
1998年12月井岡弘樹に勝利元世界王者を破り評価を高める
1999年東洋太平洋王座獲得OPBFスーパーフライ級王者
2000年8月世界初戴冠WBC世界スーパーフライ級王者
2004年6月28日川嶋勝重に敗北1回TKOで王座陥落
2005年7月18日川嶋勝重に雪辱12回判定勝ちで王座奪還
2006年2月27日ホセ・ナバーロに勝利世界王座の初防衛に成功
2007年3月15日JBCに引退届を提出プロボクサーとしての現役生活を終える

最終戦績は36戦32勝8KO・3敗1分

徳山昌守のプロ通算成績は、36戦32勝(8KO)3敗1分です。

勝利数だけでなく、世界王座の防衛実績にも注目する必要があります。初戴冠後に8連続防衛を達成し、川嶋勝重に敗れて王座から陥落。その後、再戦で王座を奪い返し、2006年2月のホセ・ナバーロ戦で初防衛を果たしました。

つまり、通算9度の防衛は、最初の王座での8連続防衛と、王座奪還後の1度の防衛を合わせた数字です。

徳山の特徴は、強引に相手を倒しに行くパワー型ではなく、距離とタイミングを管理する技巧派だったことです。長いリーチを生かした左ジャブ、相手の攻撃を外すポジショニング、正確な右ストレートを組み合わせるスタイルで世界の強豪と戦いました。

【川嶋勝重戦の真相】2004年の敗北と2005年の王座奪還

徳山昌守のキャリアを語るうえで、最も重要な試合の一つが川嶋勝重との対戦です。

両者は2003年、2004年、2005年と3度対戦しています。単なるタイトルマッチの連続ではなく、徳山にとっては王者としての自信を揺さぶられ、再び世界の頂点に戻るまでの重要な転換点となりました。

2003年6月23日:徳山が判定勝ち

最初の対戦は2003年6月23日。WBC世界スーパーフライ級王者だった徳山が川嶋の挑戦を受けました。

試合は12回判定となり、徳山が3対0で勝利。川嶋の積極的な攻撃に対し、徳山は距離を保ちながら有効打を重ね、王座を防衛しました。

この時点では、徳山のテクニックと試合運びが川嶋を上回っていました。

2004年6月28日:川嶋が1回TKOで王座奪取

状況が一変したのは2004年6月28日の再戦です。

9度目の防衛戦に臨んだ徳山は、川嶋の強烈な攻撃を受け、まさかの1回TKO負けを喫しました。

それまで8連続防衛を続けていた安定王者が、わずか1ラウンドで敗れた試合は大きな衝撃を与えました。

ボクシングニュースなどの回顧記事でも、この試合は川嶋の強打が生んだ番狂わせとして取り上げられています。徳山にとっては、長期間守り続けてきた世界王座を失った屈辱的な一戦でした。

2005年7月18日:徳山が3度目の対戦でリベンジ

徳山は敗北後、1年以上のブランクを経て再起しました。

そして2005年7月18日、大阪市中央体育館で川嶋と3度目の対決を実施。今度は徳山が12回を戦い抜き、3対0の判定勝ちで世界王座を奪還しました。

公開されている試合記録では、ジャッジの採点は118対109、115対112、117対110。徳山が明確な判定で勝利したことが分かります。

この試合のポイントは、前回の敗北を踏まえて徳山が自分のボクシングを取り戻したことです。相手の強打に付き合うのではなく、距離をコントロールし、技術で上回る戦い方を貫きました。

2005年の川嶋戦が引退理由にもつながった

興味深いのは、徳山がこの試合に勝って王座を取り戻したにもかかわらず、その後、現役生活に対するモチベーションを失っていったことです。

普通なら、世界王者への返り咲きは新たな目標の始まりになります。しかし徳山の場合、長いブランクを経て川嶋にリベンジし、世界王者に戻ったことで、競技者として大きな節目を迎えていました。

勝利によって失われた自信を取り戻した一方、その先に何を目指すのかという問題が残りました。川嶋戦後の心境の変化は、後の引退を理解するうえで重要なポイントです。

【2007年3月15日】徳山昌守の引退理由とJBCへの引退届提出

徳山昌守は2007年3月15日、日本ボクシングコミッション(JBC)に引退届を提出しました。

この決断の背景には、大きく分けて2つの理由があります。

  • モチベーションの低下:2005年の川嶋勝重戦を経て、現役を続けるための闘争心が薄れていたこと。
  • ビッグマッチの不成立:長谷川穂積や亀田興毅との対戦を希望したものの、実現に至らなかったこと。

世界王者に返り咲いても闘争心は戻らなかった

2005年7月、徳山は川嶋を破って世界王者に復帰しました。翌2006年2月27日には、難敵ホセ・ナバーロとの防衛戦にも勝利しています。

しかし、ナバーロ戦の前後から進退問題は表面化していました。

試合後にはWBCスーパーフライ級からの卒業を示唆する発言もあり、現役続行か引退かについて明確な結論を出せない状態が続きました。

2006年5月の記者会見では、長谷川穂積か亀田興毅とのビッグマッチに限って現役を続ける意向を示しました。つまり、通常の防衛戦を積み重ねることよりも、自分が本当に戦いたい相手との試合を優先する姿勢に変わっていたのです。

2007年3月15日にJBCへ引退届を提出

最終的に徳山は、2007年3月15日にJBCへ引退届を提出しました。

当時伝えられた本人のコメントには、引退を長く考え続けていたことが表れています。

「考え続けた引退届。自分の中ではずっと前から答えは出ていたが、自分の考えだけでは(進退を)決めることができなかった。引退した今はスッキリしている」

この発言から読み取れるのは、突然の敗北や一時的な感情による引退ではなかったということです。

本人の中では以前から現役生活を終える答えが出ており、周囲との調整や進退への迷いを経て、正式な決断に至ったと考えられます。

また、引退後の目標として、公民館や体育館などで子ども向けのボクシング教室を開催したいという希望も語っていました。後年のジム開設につながる指導者としての志向は、引退当時から見られたものです。

PRIDEへの転向報道と実際の経緯

徳山の引退をめぐっては、2006年に総合格闘技イベントPRIDEへの参戦構想も報じられました。

ただし、この話を単純に「徳山が総合格闘技へ転向した」と理解するのは正確ではありません。

2007年3月15日の格闘技専門メディアGBRの報道によると、PRIDEを主催するDSEの榊原代表は、徳山側から五味隆典とのボクシングルールでの対戦を打診された経緯を説明しています。

つまり、PRIDEのリングに上がる構想はあったものの、MMAルールで本格的に総合格闘技へ転向するという話とは異なっていました。

この経緯も、徳山が引退前に新しい挑戦の可能性を模索していたことを示しています。

【長谷川穂積・亀田興毅】なぜ徳山昌守との対戦は実現しなかったのか

徳山昌守の引退を語る際、必ず話題になるのが長谷川穂積と亀田興毅との対戦です。

徳山は2006年、現役続行の条件として両者の名前を挙げました。世界王者同士の対決や当時注目を集めていた若手選手との試合は、実現すれば大きな話題になるカードでした。

長谷川穂積との対戦を強く希望していた

長谷川穂積は当時、WBC世界バンタム級王者として活躍していました。

徳山が戦っていたスーパーフライ級より1階級上のバンタム級であり、世界王者同士の対戦として注目される組み合わせでした。

徳山は長谷川を自分の闘争心を刺激する相手と考え、対戦を強く希望していました。2006年には、長谷川の試合後に控室を訪れ、挑戦状を渡したことも報じられています。

しかし、長谷川側は対戦に慎重な姿勢を見せていました。イミダスの引退関連資料でも、長谷川陣営が難色を示したため試合が実現しなかった経緯が紹介されています。

徳山にとっては、自分が本当に戦いたい相手との試合が実現しないという状況が続きました。

亀田興毅との対戦も実現せず

もう一人の候補が亀田興毅です。

当時の亀田は大きな注目を集めていた若手ボクサーで、徳山はその実力を認めつつ、自分との対戦によって本格的なボクシングを経験させたいという考えを示していました。

2006年5月の会見では、亀田との対戦を希望する姿勢を明確にしています。徳山の所属ジム側も亀田陣営との接触を進めていたと当時の報道で伝えられました。

ただし、交渉は具体的な試合契約に至りませんでした。対戦を望む選手がいても、両陣営の合意、試合条件、開催時期などが整わなければ世界的な注目カードでも実現しません。

徳山が希望した長谷川戦と亀田戦は、いずれも実現しないまま時間が過ぎていきました。

対戦が実現しなかったことだけが引退理由ではない

ここで重要なのは、徳山の引退を「長谷川や亀田と戦えなかったから」とだけ説明しないことです。

本人が語った引退の背景には、2005年の川嶋戦以降に生じたモチベーションの低下がありました。長谷川や亀田との対戦は、現役を続けるための大きな目標として位置付けられていたものの、それが実現しなかったことで競技を続ける理由も弱くなっていきました。

言い換えれば、対戦相手が見つからなかったことと、本人の中で現役を続ける意味が薄れていたことが重なったのです。

この2つを分けて考えると、2007年の引退は単なるマッチメークの失敗ではなく、競技者としての目標を失ったことによる決断だったと理解できます。

【プロの結論】徳山昌守の引退から見える世界王者のキャリアと現在の挑戦

徳山昌守のボクシング人生には、世界王者としての成功だけでなく、挫折からの復活、引退への葛藤、そして指導者としての再出発が含まれています。

そのキャリアを評価する際、特に注目したいのは次の3点です。

1. 技術で世界王座を守り続けたこと

徳山の最大の強みは、相手の攻撃を受けずに自分の攻撃を当てる技術でした。

36戦32勝という戦績に加え、8連続防衛という実績は、単発の強さではなく、継続的に高いパフォーマンスを発揮できた証拠です。

現在のジムで「打たせずに打つ」ボクシングを重視しているのも、現役時代の経験が指導方針に生かされているためです。

2. 引退は実力の限界だけで決まるものではない

徳山は2006年2月のナバーロ戦に勝利し、世界王者としての実力を示していました。それでも翌年に引退しています。

この事実は、プロスポーツ選手のキャリアを考えるうえで興味深いものです。

勝ち続けられる能力があることと、競技を続けたいと思えることは必ずしも一致しません。目標、対戦相手、本人の意欲、周囲との調整など、複数の条件がそろわなければ現役生活は続きません。

徳山の場合、川嶋との再戦を勝ち抜いた後に、新たな闘争心を維持することが難しくなっていたことが大きな転換点でした。

3. 引退後もボクシングへの貢献は続いている

2007年に引退した徳山は、飲食店経営を経験した後、ボクシングジムの会長という新しい立場に進みました。

2026年には所属選手が同日3勝を挙げるなど、育成面でも具体的な成果が表れ始めています。

世界王者として自分が勝つことを追求した時代から、選手を勝たせる立場へ。徳山のキャリアは、ボクシングとの関わり方を変えながら続いています。

2007年の引退届提出は競技者としての終わりでしたが、ボクシング人生そのものの終わりではありませんでした。

【徳山昌守】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:徳山昌守は2026年現在何をしていますか?
A1:東大阪市で徳山ボクシングジムを主宰しています。2024年12月にジムを開設し、2025年にはプロ加盟。2026年10月には所属選手3人が同日プロ初勝利を挙げ、指導者として活動しています。

Q2:徳山昌守の本名と国籍は何ですか?
A2:本名は洪昌守(ホン・チャンス)です。在日朝鮮人3世で、プロボクシング世界チャンピオン会のプロフィールでは韓国国籍と記載されています。過去の資料には朝鮮籍という表記もあります。

Q3:徳山昌守のボクシング戦績と引退理由は?
A3:プロ戦績は36戦32勝(8KO)3敗1分です。2000年にWBC世界スーパーフライ級王者となり、通算9度の防衛を記録しました。2007年3月15日にJBCへ引退届を提出した理由は、2005年の川嶋勝重戦以降のモチベーション低下と、希望していた長谷川穂積・亀田興毅との対戦が実現しなかったことなどです。

まとめ:徳山昌守は引退後もボクシング界で新たな歴史を築いている

徳山昌守は、WBC世界スーパーフライ級王座を2度獲得し、通算9度の防衛を達成した元世界王者です。本名は洪昌守(ホン・チャンス)。在日朝鮮人3世としてのルーツを持ち、1990年代から2000年代にかけて日本のボクシング界で活躍しました。

2004年の川嶋勝重戦では1回TKOで敗れましたが、2005年7月の再戦で判定勝ちし、見事に王座を奪還しています。しかし、その後は現役生活へのモチベーションが低下。長谷川穂積や亀田興毅とのビッグマッチも実現せず、2007年3月15日にJBCへ引退届を提出しました。

引退後は焼肉店経営などを経験し、2024年には東大阪市で徳山ボクシングジムを開設。2025年のプロ加盟を経て、2026年には所属選手の勝利も生まれています。

現役時代は自ら世界王者になることを目指し、現在は次の世界王者を育てる立場へ。徳山昌守の歩みを振り返ると、2007年の引退はボクシングとの決別ではなく、新しい役割へ進むための転換点だったことが分かります。

これから徳山ボクシングジムからどのような選手が育っていくのか。元世界王者の経験を受け継ぐ次世代の活躍にも注目が集まります。

(出典: 徳山 昌 守(Yahoo!ニュース))