【古代オリエント史の功績】中近東文化センターとトルコの発掘調査

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【古代オリエント史の功績】中近東文化センターとトルコの発掘調査
【古代オリエント史の功績】中近東文化センターとトルコの発掘調査
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三笠宮崇仁親王を語るうえで、陸軍少佐時代と並んで欠かせないのが、古代オリエント史の研究です。

古代オリエントとは、現在の中東地域を中心に栄えた古代文明を研究する学問分野です。メソポタミア、エジプト、アナトリアなど、人類の初期文明が発展した地域の歴史や文化を対象とします。

崇仁親王は1947年から研究に取り組み、1954年には日本オリエント学会の創設に尽力しました。初代会長を務めた期間は1976年までで、その後も1996年まで名誉会長として学会を支えています。

さらに、1979年には東京都三鷹市に中近東文化センターを設立しました。

この施設の設立には、崇仁親王の発意に加え、出光佐三、佐藤栄作、石坂泰三らの協力もありました。日本国内で古代中近東を専門的に研究する基盤を整えたことは、学術史における大きな功績です。

カマン・カレホユック遺跡の発掘調査

崇仁親王の研究活動は、国内の研究機関設立だけでは終わりませんでした。

トルコ共和国のカマン・カレホユック遺跡における考古学調査にも深く関わっています。

- 1985年: 中近東文化センターによる発掘調査に向けた予備調査が行われる。
- 1986年: 崇仁親王による最初の鍬入れを経て、本格的な学術発掘調査が進められる。
- 1998年: 中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所が設立される。
- 2026年: 現地での発掘調査や研究活動が継続している。

カマン・カレホユック遺跡は、トルコ中部に位置する丘状の遺跡です。オスマン帝国時代から紀元前の時代に至るまで、さまざまな時代の遺物が埋蔵されています。

宮内庁が公表した2024年12月の現地視察記録では、遺跡の4100~4300年前の地層から世界最古の鉄が発掘されたことなど、従来の通説を覆す発見について説明を受けた様子が紹介されています。

この発掘調査を支えるのが、現在の公益財団法人中近東文化センターと、その附属機関であるアナトリア考古学研究所です。

2026年も研究所はカマン・カレホユックなどで発掘調査を続けており、現地研究者と日本の研究者による学術交流の拠点になっています。

三笠宮崇仁親王の功績は、個人の研究成果だけではありません。研究者が現地で長期的に調査を続けられる組織を整え、次世代に研究を引き継ぐ仕組みを築いたことにあります。

【百合子妃との結婚と5人の子ども】三笠宮家の家系図を整理

三笠 宮 崇仁 親王の関連写真・ビジュアル
【画像】三笠 宮 崇仁 親王 関連ショット

三笠宮崇仁親王は1941年10月22日、子爵・高木正得の次女である百合子妃と結婚しました。

百合子妃は1923年6月4日生まれで、崇仁親王とは約8歳の年齢差がありました。結婚後、夫妻は三男二女、合計5人の子どもに恵まれています。

宮内庁の公式記録では、婚約にあたる納采の儀は1941年10月3日、結婚の勅許は同年3月29日と記録されています。

三笠宮崇仁親王の5人の子ども



第1子・甯子(やすこ)内親王

1944年4月26日生まれ。1966年に近衞忠煇氏と結婚し、近衞甯子となりました。




第2子・寬仁親王

1946年1月5日生まれ。1980年に信子妃と結婚。2012年6月6日に薨去しました。




第3子・桂宮宜仁親王

1948年2月11日生まれ。桂宮の宮号を持ち、2014年6月8日に薨去しました。




第4子・容子(まさこ)内親王

1951年10月23日生まれ。1983年に千宗室氏と結婚し、千容子となりました。




第5子・高円宮憲仁親王

1954年12月29日生まれ。1984年に久子妃と結婚。2002年11月21日に薨去しました。


三笠宮家の家系図と皇室内のつながり

三笠 宮 崇仁 親王の様子・注目ショット
【写真】三笠 宮 崇仁 親王 近影・注目カット

三笠宮家の位置関係を簡単に整理すると、次のようになります。

- 大正天皇・貞明皇后
- 昭和天皇
- 秩父宮雍仁親王
- 高松宮宣仁親王
- 三笠宮崇仁親王・百合子妃
- 甯子内親王(近衞家)
- 寬仁親王(信子妃との間に彬子女王・瑶子女王)
- 桂宮宜仁親王
- 容子内親王(千家)
- 高円宮憲仁親王(久子妃との間に承子女王・典子・絢子)

崇仁親王の子ども5人のうち、男子は寬仁親王、桂宮宜仁親王、高円宮憲仁親王の3人です。

しかし、3人とも父親より先に亡くなっています。

- 高円宮憲仁親王:2002年11月21日
- 寬仁親王:2012年6月6日
- 桂宮宜仁親王:2014年6月8日

三笠宮崇仁親王は、3人の息子全員を見送ることになりました。

また、息子たちの間に生まれた孫は5人で、全員が女子です。このうち現在も皇族として活動する孫は、彬子女王、瑶子女王、承子女王の3人です。

結婚によって皇籍を離れた2人の孫もいます。

なお、娘の甯子と容子も結婚によって皇籍を離れています。

崇仁親王が薨去した2016年の時点では、孫は合計9人、曾孫は3人でした。

百合子妃は夫を支え続けた存在

三笠 宮 崇仁 親王の報道・詳細資料
【資料】三笠 宮 崇仁 親王 報道・メディア記録

百合子妃は、夫の学術研究や皇族としての活動を長年支えた人物です。

皇族として医療、福祉、文化、スポーツ、国際親善など幅広い分野に携わり、日本赤十字社の名誉副総裁なども務めました。

2024年11月15日、百合子妃も101歳で薨去しました。

夫の崇仁親王が2016年に亡くなってから約8年後のことです。

2026年現在、夫妻ともにこの世を去っていますが、三笠宮家の歴史は、3人の孫世代の女性皇族にも受け継がれています。

【三笠宮崇仁親王の双子説】宮内庁が否定した噂の真相

三笠宮崇仁親王について検索すると、「双子説」「双子の妹」「宮内庁が否定」といった関連キーワードが見つかります。

なぜ、こうした話が広まったのでしょうか。

発端となったのは、三笠宮に双子の妹がいたという説です。1984年(昭和59年)、皇室に関する一部の出版物や報道で、この説が取り上げられました。

当時、河原敏明氏が『悲劇の皇女 三笠宮双子説の真相』という書籍を刊行したことも、この話題が広まった背景にあります。

しかし、宮内庁はこの説を事実ではないとして否定しました。

宮内庁の否定声明は1984年1月20日

1984年1月20日、宮内庁は三笠宮に双子の妹がいたという説を否定する声明を発表しました。

この対応は、同年4月3日の衆議院内閣委員会の国会会議録にも記録されています。

会議録によると、政府側は、三笠宮に双子の妹がいるという記事について、宮内庁が執筆者や出版社に事実がない旨を申し入れたと説明しました。

さらに、宮内庁はあらゆる事実を調べても、そのような事実は考えられないとの立場を明らかにしています。

つまり、双子説は宮内庁によって公式に否定された話です。

三笠宮夫妻自身も双子説を否定

この問題で重要なのは、宮内庁の声明だけではありません。

2007年に刊行された工藤美代子著『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』では、三笠宮夫妻へのインタビューが掲載され、夫妻自身も双子説を否定しています。

また、説の有力な証言者とされた末永雅雄氏も、証言そのものの存在を否定したとされています。

双子説をめぐる主張は、公式な記録や本人たちの説明と一致していません。

双子説についての事実と噂の比較

検証項目確認できる経緯
双子の妹がいたという説一部の出版物で主張された
1984年1月20日宮内庁が説を否定
1984年4月3日衆議院内閣委員会で宮内庁の対応が説明された
山本静山本人双子説を否定したとされる
2007年三笠宮夫妻も著書のインタビューで否定
現在の評価双子説を裏付ける公的な事実は確認されていない

また、「皇室では双子が忌み嫌われていた」という説明も、一般化には注意が必要です。

近代の皇族には、伏見宮家の敦子女王と知子女王のように双子として生まれた姉妹の事例があります。

したがって、皇室の慣習を根拠に三笠宮の双子説を事実とすることもできません。

双子説の真相は、宮内庁と本人夫妻が否定した、裏付けのない説として整理するのが適切です。

【句集『夕虹』と晩年】2016年10月27日、100歳で薨去

三笠宮崇仁親王には、歴史研究者や軍人という顔のほかに、俳句を愛する文化人としての一面もありました。

俳句では星野立子に師事し、百合子妃とともに作品を発表しています。

1957年には、夫妻の句を収めた『句集 初雪』を刊行しました。

その後、結婚70周年を迎えた2012年には、鷹羽狩行の勧めもあり、角川書店から『句集 夕虹』を出版しています。

同書の著者表記は「三笠宮若杉・ゆかり」です。国立情報学研究所のCiNii Booksにも、三笠宮崇仁親王と百合子妃の共著として書誌情報が登録されています。

夫婦で長い年月を過ごし、共通の趣味である俳句を一冊の作品集にまとめたことは、2人の関係を知るうえでも興味深い記録です。

晩年の入院と2016年の薨去

2012年6月、長男の寬仁親王の葬儀に出席した崇仁親王は、その後、体調を崩して聖路加国際病院に入院しました。

当初は過労とみられていましたが、検査の結果、鬱血性心不全と診断され、同年7月には心臓の手術を受けています。

8月31日に退院し、同年11月には高円宮憲仁親王の十年式年祭に出席しました。

2015年12月2日には100歳の誕生日を迎えています。

しかし、翌2016年5月に肺炎で入院。その後も治療が続き、同年10月27日午前、東京都中央区の聖路加国際病院で薨去しました。

享年100。

東京文化財研究所の物故者記録には、心不全による薨去と、軍人・オリエント学者としての功績が記録されています。

三笠宮崇仁親王が亡くなったことで、三笠宮家の初代当主として歩んだ100年の生涯に幕が下りました。

その後、百合子妃が2024年11月15日に薨去。夫妻が築いた家族の歴史と学術的な遺産は、現在も皇室や研究機関に受け継がれています。

【三笠宮崇仁親王】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:三笠宮崇仁親王はどのような人物ですか?

三笠宮崇仁親王は、大正天皇の第4皇子で、昭和天皇の弟にあたる皇族です。陸軍少佐として終戦を迎えた後、古代オリエント史の研究者となり、日本オリエント学会や中近東文化センターの設立・発展に尽力しました。

Q2:三笠宮崇仁親王の子どもは何人ですか?

百合子妃との間に三男二女の5人がいます。近衞甯子、寬仁親王、桂宮宜仁親王、千容子、高円宮憲仁親王です。3人の息子は全員、父親より先に薨去しています。

Q3:三笠宮崇仁親王に双子の妹がいたという話は本当ですか?

宮内庁は1984年1月20日に双子説を否定しています。さらに、2007年刊行の書籍に掲載されたインタビューで、三笠宮夫妻自身も否定しました。現在、双子説を裏付ける公的な事実は確認されていません。

Q4:三笠宮崇仁親王は何歳で亡くなりましたか?

2016年10月27日、100歳で薨去しました。1915年12月2日生まれで、亡くなる前年に100歳を迎えていました。

Q5:中近東文化センターは何のために設立されたのですか?

古代中近東の歴史や文化を研究するための拠点として、1979年に東京都三鷹市に設立されました。崇仁親王の発意によるもので、トルコのカマン・カレホユック遺跡の発掘調査などを支えてきました。

Q6:三笠宮崇仁親王の句集には何がありますか?

代表的なものに、百合子妃とともに刊行した1957年の『句集 初雪』と、結婚70周年を記念して2012年に刊行した『句集 夕虹』があります。

まとめ:【プロの結論】三笠宮崇仁親王が100年の生涯で残したもの

三笠宮崇仁親王の生涯を振り返ると、皇族、軍人、研究者、夫、父親という複数の立場を経験した人物だったことが分かります。

特に注目したいのは、次の3つの功績です。

1. 戦争経験を経た歴史研究への転身: 陸軍少佐として終戦を迎えた後、東京大学で古代オリエント史を学び、研究者として活動したこと。
2. 日本の中近東研究の基盤づくり: 日本オリエント学会の創設、中近東文化センターの設立、トルコでの考古学調査を推進したこと。
3. 家族と文化活動の歴史: 百合子妃との結婚生活、5人の子ども、俳句の共作など、皇族としての公務以外にも豊かな足跡を残したこと。

双子説のような話題は、宮内庁の公式記録や本人夫妻の証言と照らし合わせることが大切です。また、家系図については、子ども5人の経歴だけでなく、3人の息子が父より先に亡くなったことや、孫世代の構成まで把握すると、三笠宮家の歴史がより明確になります。

2026年現在、三笠宮崇仁親王はすでに薨去していますが、トルコでの考古学調査や中近東文化センターの活動は続いています。

三笠宮崇仁親王の最大の功績は、皇族という立場を超えて、日本と海外の研究者が長く学術活動を続けられる基盤を築いたことにあります。

100年の生涯を通じて培われた歴史への関心と研究への情熱は、今も学術交流や次世代の研究者たちの活動の中に息づいています。 (出典: 三笠 宮 崇仁 親王(Yahoo!ニュース))